第26回大会シンポジウム「シェリングの時代の大学論と現代」
司会報告  田中 均

1. シンポジウムの趣旨

 日本シェリング協会第26回大会のシンポジウムは、「シェリングの時代の大学論と現代」というテーマで、2017年7月2日に九州大学箱崎キャンパスにおいて開催された。
このシンポジウムの趣旨は、近年の「大学改革」の流れの中で、シェリングの時代に生み出されたとされる近代的大学の理念を再検討することによって、これからの大学のあるべき姿について考えるというものである。大学改革に関わる最近の出来事でもっとも物議を醸したものと言えば、2015年6月の文部科学大臣による通知のなかで、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院」について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」が打ち出されたことであろう。この「社会的要請」という言葉を「学問の有用性」と言いかえるならば、これはシラーの大学就任講演(1789年)、カントの『学部の争い』(1798年)、シェリングの『学問論』(1802年)において取り上げられた根本的な問題である。また、大学をめぐる昨今の議論では、近代大学の理念としてのいわゆる「フンボルト・モデル」がしばしば言及される。「フンボルト・モデル」とは、「教育と研究の一致」とも言いかえられ、教員は知識を学生に伝達するのではなく、教員も学生もともに研究することこそが本来の教育であるという理念であり、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトがベルリン大学創設に際して提唱したとされてきた。「フンボルト・モデル」は、一方では、大学の大衆化とともに無効となったと言われるが、他方では、お茶の水女子大学の「新フンボルト入試」のように、「アクティブ・ラーニング」と結びつけてその意義を見直される場合もある。
 今回のシンポジウムでは、まず伊藤敦広氏に、教育学の見地からフンボルトの「陶冶」(Bildung)の思想について詳細に解説していただいた。次に藤田正勝氏に、シェリングの『学問論』の特徴について、カントの『諸学部の争い』と比較しつつ論じていただいた。そして最後に座小田豊氏に、ドイツ観念論における学問の役割をめぐる議論を概観していただいたうえで、いま学問の役割を問い直す取り組みとして、東北大学の全学プロジェクト「社会にインパクトのある研究」をご紹介いただいた。

2. 質疑応答

 このシンポジウムでは質問紙を使用し、登壇者が自分に向けられた質問を選んで応答するかたちで質疑応答が進められた。
 藤田氏は、「有用性を「人間にとって不可欠な事柄の解決」として理解することで、積極的に有用性の問題を議論していくことが、現代の哲学には必要ではないか」という質問に対して、一面ではその必要性を認め、その事例として、京都大学大学院総合生存学館(思修館)において、現代社会や地球環境が直面する問題について、工学、医学、経済学、哲学などの研究者が分野を越えて研究している現状を紹介された。

       

 また、シェリングには、デリダが言うような「全体主義への誘惑」があるのかという問いに対しては、少なくとも国家についての記述を手がかりにすると、「誘惑」がないとは言えないが、シェリングは、国家からの自由がなければ哲学の研究はできないという立場に立っているので、全体主義を主張したとは言えないと応答された。
 最後に、『学問論』における「芸術学部」(Fakultät der Künste)とは何か」という質問に対して、これは哲学・歴史学・文学の研究を自由に追求する人びとの集まりであり、現代においても、学部や学科、さらには大学の枠組みに限定されることなく人びとが集って、哲学や現代の諸問題について議論する場を作ることは可能であり、これまでもなされてきたと解説された。

        

 伊藤氏は、現代の大学における研究と教育の一致の可能性についての質問に対して、たしかに現代の大学が、フンボルトの意味での自己形成・陶冶の機関であるとは言いがたいし、そもそもベルリン大学創設の時点で大衆化は始まっていると返答された。伊藤氏の補足によれば、徒弟制ないしサロン的施設としての高等教育施設観は、ヘルムート・シェルスキー『大学の孤独と自由』(原著1963年,邦訳1970年)では、フィヒテ、フンボルト、シュライアマハーらの路線として規定されているが、シュライアマハーが現実の制度と妥協することによって、「大学」の名称や従来の学部組織を受け継いだ近代の大学のあり方が形作られた。「フンボルトの考えていた大学は貴族主義的であり、差別に通じるのではないか」という質問に対しては、伊藤氏は明確に否定され、たしかにフンボルトは、学問に向いている学生はごく一部だと述べているが、文学を通じて、あるいは美術館で芸術に触れることを通じて、市民が自己陶冶するという発想を持っていたとコメントされた。「少人数教育なら研究と教育の一致は可能ではないか」という質問に対しては、たしかにゼミナール形式ならばある程度可能であると思うが、これはベルリン大学に先だってすでにゲッティンゲン大学において行われていたもので、フンボルトに特有な考えではないと指摘された。最後に、高等教育に限らず初等中等教育においても、研究の要素が必要であると付言された。
 座小田氏は、「社会にインパクトある研究」におけるプロジェクト相互の協働関係についての質問に答えて、実際に協働の気運が高まっていることを紹介され、さらに、「創造する日本学」のプロジェクトに触れて、日本の固有性や独自性が普遍的な力を持ちうるという考え方が、あらゆるプロジェクトに共通する関心となることへの期待を示された。
 また「有用性」について座小田氏は、有用性自体が否定されるべきではなく、「何のため」(Wozu)という問いを立てることは必要であり、そのさいに外的な合目的性ではなく内的な合目的性に触発される有用性であるならば積極的に肯定されるべきであると答えられ、その例として、プロジェクトにおいては「人びとの暮らしにどう役立つのか」という問いを立てる必要があり、その場合の内的な合目的性とは「幸せ」(Wohl)であって、これを深く捉える必要があると指摘された。

        

 また、シェリングが諸学問の根底に置く「根源知」とは、ヘーゲルにおいては「生」(Leben)にあたり、生きる力への根源的な確信を「根源知」として主張できるのではないかと示唆されたほか、大学が普遍的な視点を持つことは、異質なものやマイノリティの抑圧ではなく、むしろそれらの存在意義を見直すことにつながるとコメントされた。

3. 「新フンボルト的大学」

 今回のシンポジウムでは、学問の「有用性」、諸学問の有機的な組織化、研究と教育の一致といった諸問題が論じられたが、最後に、これらの諸問題についての最近の一つの提案を紹介したい。
哲学者・人類学者・社会学者のブリュノ・ラトゥールは、2016年にコーネル大学で、「地球的科学はすべての科学の新しい傘か――新フンボルト的大学のためのヒント」(http://www.bruno-latour.fr/sites/default/files/150-CORNELL-2016-.pdf)という講演をしている。ここでの「フンボルト」とは、ヴィルヘルムではなく、アレクサンダー・フォン・フンボルトのことである。ラトゥールは、地球全体の気候変動という状況下で必要とされるのは、地球を対象化して研究する従来の「地球科学」ではなく、生きられる場所としての地球を研究する「地球的(諸)科学」(earthly sciences, geo-logy)であると述べる。後者は土壌学、水文学、地球化学などの自然科学だけでなく、人類学、法学、歴史学、さらには神学など多様な学問を含み、地球上の「クリティカル・ゾーン」、すなわち、「私たちが出会ってきたすべての生き物が調査される、上空数キロと地下数キロ」の領域を総合的に研究する。
 ラトゥールは、諸学問の「地球的諸科学」への再編を、現代的な技術と理論に基づいた、フンボルトの自然誌への回帰として位置づけており、この再編において要請される大学のあり方、すなわち「新フンボルト的大学」について以下のように述べている。まず、従来の大学が、まず先端的な研究と専門家の教育を追求し、その成果を「アウトリーチ」として公衆に広めるという、「トリクルダウン」のモデルをとってきたのに対して、「新フンボルト的大学」では、気候変動の影響を受ける公衆に働きかけることこそが優先的な課題とされる。また、大学での研究が公衆に働きかけるさいには、「デザイン」と「パフォーマンス」がキーワードとなる。「デザイン」とは、革命的な変化ではなく、世界をより生存可能なものにするための漸進的な活動を包括する名称であり、「パフォーマンス」は、諸問題の「ドラマ化」を通じて、現在の状況と科学の成果について公衆の感受性を育成する技能を指している。またラトゥールは、諸学問で蓄積されるビッグ・データの「可視化」によって、相互に成果を比較し共有することの必要性も指摘している。
 ラトゥールが提案する、地球規模の課題に取り組む学際的な研究・教育組織は、シンポジウムで言及された京都大学・東北大学の取り組みとよく類似しており、その意味では新奇なものではないが、注目すべきであると思われるのは、変化する地球における生存という課題を前にして、諸学問を相互に結びつける方法、および学問が公衆に働きかける活動や技術のあり方について問うている点であり、人文学のこれからのあり方について考える上でも、こうした問いを深めていくことが有効だろう。